すずめの今昔
加賀百万石の前田家の所蔵品を保存・管理している成巽閣(せいそんかく)で江戸時代末期・元禄年間に『婦くらすずめ』と言う凧が揚がっていたと書かれた古い文献に出会い それを基に再現しました。

(成巽閣 http://www.seisonkaku.com/)
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明日で阪神淡路大震災から20年。
 当時 私は内灘町に住んでいました。

テレビで見る道路の隆起や陥没にいかに大きな地震だったか今も思い出します。

あれから20年。

テレビのインタビューで「街は復興しているかに見えますが私たちの生活は地震後は考えられないくらい変わりました」と言っていた女性の言葉に胸が詰まりました。

当時は 「凧の町 内灘町」に住んでいたのでこちら とこちら(加賀の旅人)で書いています。


今日は晴れて少し風があったので家の前で当時の凧を揚げました。

        

        

        

住宅地なので電線が多く高くは揚げられませんでしたがあらためて阪神・淡路大震災を思い出しました。
 
| 阪神・淡路大震災凧揚げ | comments(4) | - | すずめ |
阪神大震災から10年を経て
愛情と激励を込めたプレゼント凧で
一日を有意義に楽しんでもらえたと自負している。
私達の想像をはるかに超える枚数の凧を贈る事が出来たことに
各方面の大きな力があった事を実感した。

このとき復興途上の神戸の街を見た私達は 
数年後に旅行で再び神戸を訪れた。

立派に復興した街に驚きの連続だった。
震災の影はすっかり払拭され 当時の面影は影を潜めた立派なビルの建設。
斬新な町並みに見惚れるばかりであった。
 
6433名の尊い人命が失われた事は紛れもない事実。
しかしそれを感じさせない街並。
冷たく寒い風を感じた。

街は復興したが 大切な人や物を失った人達が心に負った傷は癒える日はないだろう。

生涯忘れ去る事の出来ない震災だが 一日でも心安らぐ日が多い事を祈っている。

そして昨年の日本では中越地震。
今年に入りスマトラ沖地震で大きな被害が発生した。

震災から10年を経て 
また恐怖に心を痛めているだろうと思うといたたまれない気持ちの持って行き場がない

ある小学校に一括でプレゼントされた町長のデザインのダイヤ凧。

内灘町のご好意でこの年の夏休みに小学校の生徒を招待し 
内灘町の生徒と楽しい交流を行い心に残る数日間を過しました。

励ましのメッセージを書いた凧の尻尾が取り持った交流は 
本当に和気あいあい楽しい交流であったと聞きました。
そして此処でもまたお役に立てたことを嬉しく思いました。

思い起こせば秋にプレゼント凧の提供を依頼され 
お屠蘇気分もそこそこに二年越しの宿題を抱え 
頭の中は一杯の日々でした。

しかし被災された方々の事を思えば 協力できることがどんなに幸せで
また貴重な事かを考えさせられる日々でもありました。

初めて凧に出会って16年。
私達には今回の様なイベントに協力する事も一つの活動ですが
一人でも凧の伝統文化にふれる人が多くなれば良いと思い
地域での凧作りのボランティアをしています。

昔は凧は「男の子の遊び」と思われていましたが 
昨今は「親子の遊び」になって来ています。
子供が作った凧を親が取り上げて真剣に揚げる所などは
本当に微笑ましい光景です。

あの時の子供の中には 
お父さん・お母さんになっている子もいるのではないでしょうか。
親子で凧揚げをしていないかなぁ・・・と思ったりしてるんです。
どうしているのでしょうかね。。。
私達も孫のいる歳になりましたから。
| 阪神・淡路大震災凧揚げ | comments(0) | trackbacks(0) | |
ボランティア号 神戸に向かっていざ出発!
これまでに凧の制作にボランティアで協力してくれた人達を乗せ
大会前日に内灘町の大型バス《ボランティア号》が凧揚げ大会に参加するために神戸に向けて出発した。

途中の高速道路は通行規制をしていたが
主催者側から「通行許可証」が発行されていたので
案外スムーズに神戸に着く事が出来た。

テレビや新聞で被災地のニュースや記事を見て知っているはずだが 
神戸が近くなるにつれ被災家屋や道路の決壊の光景を目の当たりにし 
饒舌だったお喋りが段々ため息に代わりバスの中は重い空気が漂っていた。

その晩は市内のホテルに宿泊した。

翌朝会場の須磨海岸に向かった。

沢山の親子連れがプレゼントの凧を手にし凧揚げに興じていた。

一緒に来た仲間のうちの一人は 目ざとく自分達が作った凧を見つけ
「揚っとるわ!エイ凧が??ほらほら」とはしゃぎ捲くり。
自分達の作った凧で楽しんでくれていることを実感し 
感慨深げに見入っている人もいた。

阪神地区の凧の会の会員達が全国の凧友に呼びかけ 
沢山の善意の凧が集まった。

連凧もあり 角凧もあった。
形も大小さまざまで 辛い思い出をこの日だけでも忘れて
凧を楽しんでもらおうと大きな善意の輪が須磨海岸に広がった。

しかし会場の隅々まで歩き見回したが 
内灘町が贈った町長デザインのダイヤ凧が一枚も目に入らない。

聞く所によると主催者側の判断で 
ある小学校に一括でプレゼントされたとの事でホッとした。

思いもかけなかった533枚という枚数の凧を 
バラバラに配布するには忍びなかったそうである。

会場で目にする事が出来ず少々残念な気もしたが 
主催者側のその配慮に感謝し内灘町としての気持ちが通じた事を知り
とても嬉しかった。

ダイヤ凧を探し回る人達にその話をすると
「見れなくて残念だけど嬉しいね」と口々に伝わり
お互いに「良かったね」の声も。

出発前にボランティア号に参加する人に話をしておいた事があった。
「会場で凧を揚げている人たちのお手伝いをし自分達は町に帰ってから楽しみましょう」と。

確かに凧を揚げて見せてあげるのも良いだろう・・・
でも最後まで神戸の人達を励まし 助けてあげることに徹しようと
気持ち良く賛成してくれた。

こうして無事大会を終え
全員で一日も早い復興を心から願い帰路に着いた。
| 阪神・淡路大震災凧揚げ | comments(0) | trackbacks(0) | |
此処に来て難題が・・・
発送作業を終えて担当者との発送の打ち合わせの時に思いもしない難題が持ち上がった。

町長のメッセージと共に凧を主催者に直接持って行って欲しいとの事だった。

発想は素晴らしいが 此方として思いもかけない事であった。
早速 大阪の某凧の会の会長に連絡をし主催者の意向を聞いてもらった。
(会長は静岡県の相良町の大会の時に凧の提供を依頼をされた人)

すると内灘町からのプレゼント凧の贈呈式をすると 
前例が出来て収拾が出来なくなるとの理由で遠慮して欲しい旨の
連絡が入った。

しかし内灘町に意を汲んでもらえず再度の交渉の中で 
産経新聞社の一担当者との間での贈呈式という形で受け取ってもらえることになった。

大阪の梅田まで善意の押し売りに行くようで気が進まないが 
プレゼント凧の件では内灘町に資金だけでなく
作業する為の場所の提供などがあり 
気が進まないまでも受け入れなければならない事への苦悩があった。

会社の仕事の繁忙の時でもあり この件でかなりの有休を取っているのに加え 贈呈式に行くとなるとまた有休を取らなくてはならなかった。

結局 日程を調整し2月13日に地元の新聞社やテレビ局の取材を済ませ
役場前で町長のメッセージを受け取るセレモニー・出発式の後大阪に向かって出発した。

内灘町からは職員の運転するワゴン車に800枚のプレゼント凧を積んで主人と私が同行した。

震災から一年経っているのに 神戸の町は見る影もなく崩れ去り 
外観は倒壊を免れたように建っている隣家に
青いビニールシートを掛けられたまま寄りかかるように傾いて建っていた。

運動場や公園の広場であろう所には沢山の仮設住宅が軒を連ね建っていた。
しかし被災者の数に足りるほどの建設ではないだろうと思った。

そんな話をしながら梅田の産経新聞社に到着した。

無理を聞いてもらい善意の押し売りに来たと思っていた我々の意に反し
担当者がとても好意的に接してくれた。
そして正式な贈呈式に出来なかった事に対する丁寧な言葉も頂き帰路に着いた。

心を痛めながら来たけれど 担当者の心遣いで疲れが吹っ飛んだような気持ちになったのは確かである。

行きは凧を満載した上に 重い気持ちも積んでの道中だったけど 
帰りはハンドルが軽いと役場の職員が笑って言った。

後は3月9日に須磨海岸で行われる凧揚げの成功を祈るだけであった。
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プレゼント凧の発送準備
ダイヤ凧とエイ凧の制作を終え 主催者への発送準備にかかった。

凧の数を数えながら協力してくれた内灘町やボランティアの協力に
心から感謝した。

制作段階から発送の為の箱探しをしていたが
思うような箱が見当たらず 段ボール箱の会社に問い合わせた。
しかし かなりコストが高い事が判明。
結局主人と二人で凧に合わせた箱を作ることになった。

主催者の準備の都合上 到着期限は1月31日まで。
主人は会社を休んでの発送作業であった。

そんな折 町内の凧の愛好家が大きなビニール袋を持って
私達の所に来た。
子供達が作った事が一目で分かるような凧が無造作に詰め込んであった。
そしてそれらを一緒に送って欲しいと言った。

凧と糸が絡まりとてもじゃないが貰った側が困るであろう事が
想像できた。
せめて少し手直しをして欲しいと言ったが聞く耳を持たずで
「子供の作った凧だから大人が勝手な手直しは出来ない」とまで言った。

「そんな考え方はおかしい」と諭しても「何でや?」と平気で言い
それらを押し付けるようにして置いて帰って行った。

どうせ送るなら同梱してくれても良いだろうと言う考えが見え見え。
「こっちは会社を休んでまで手直しは出来ないよ!」と言いたかった。

「もし自分が主催者側だったら 配布に苦しむだろう」と思った。
そう思ったら時間がかかっても二人で手直しをしようと決めた。

私達と一緒に作業してくれたボランティアの人達は本当に責任感が強く 
こっちが気付かないこと以上に良くやってくれた。

それなのにこの差は何だろう。
作業をしながら二人の会話も途切れ途切れになっていった。

どんなに絡まって 紙と骨が外れていても「糸がついていれば凧」
そんな凧でもプレゼントすれば 役目が果たせたと勘違いしているのではないかと思った。

 「凧を作る人は多いが 揚らない凧を揚るように工夫する人は少ない」
  

凧と出合った最初の頃 先輩の凧友が主人に言った言葉である。
気持ちが沈んでいた時だったからかも知れないが 
主人がふと口にした言葉が新鮮で 余計に心に響いた。
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